のび太とドラえもんに別れの時が訪れます。
別れはいつも突然にやってくるものです。
のび太は,いつものように宿題をせずに学校で叱られたり,ママに叱られたり。ジャイアンにいじめられたり,スネ夫の自慢話を聞かされたり。はたまた,未来のお嫁さんであるはずのしずかちゃんが出来杉君との約束を優先してしまったりと,いつもの生活を送っていました。いつもと変わらない日常でした。小学生にとっては,それが世界すべてです。そして,のび太のそばには,いつもドラえもんがいてくれたのでした。
天気のよい日のことでした。いつものように,あの白い雲がぽっかり青い空に浮かんでいた,そんなある日のことです。ふと気が付けば,ドラえもんが動かなくなっていたのでした……。
のび太には理由が分かりません。
話しかけたり,揺さぶったり,たたいたり,しっぽを引っ張ってみたりもしました。でも,なんの反応もありません。そんなドラえもんを見て,のび太は不安になってきます。いつも最後はドラえもんが何とかしてくれる,そう甘えていたところがあるのかもしれません。そのドラえもんが,動かなくなってしまったのです。
のび太とドラえもんが一緒に時を過ごすようになって,どのくらいになるでしょう。固い友情で結ばれている彼ら。
のび太はやがて,動かなくなったドラえもんが,どういう状態にあるのか,小学生ながら理解するのでした。できることなら,受け入れたくない現実がのび太の目の前にありました。
その晩,のび太は枕を濡らします。
ちょこなんと,柱を背にして座っているドラえもん……。動かないドラえもん。のび太は眠りにつくことができません。泣き疲れて,ただぼんやり,動かないドラえもんを見つめています。
無駄なことと知りつつ,いろんなことをしました。考えられること,できることのすべてを,のび太は試しました。ポケットに手を入れてみたり,思い出したようにスペアポケットを探ってみたり。
でも,ドラえもんは動きません。ただ,眠るように,壁を背に座っているドラえもん。泣くことをやめ,何か反応がないか,ただただ,黙って見つめ続ける少年のび太。
どうして気づかなかったのでしょう。のび太には,タイムマシンがあります。そう,あの引き出しの。
取るものもとりあえず,のび太は,パジャマのまま夢中でタイムマシンに乗り込みます。22世紀の世界へ。こぼれ出す涙が4次元空 間に流れ落ちてゆきます。
きっと,ドラえもんは元通りに動き出すさ……。
のび太は,何とかドラミちゃんに連絡を取ります。でも,のび太はこのとき,ドラミちゃんでもどうにもならない問題が起こっていることに,まだ気づいていませんでした。いや,ドラミちゃんでさえ,想像もしなかったことでしょう。
「ドラえもんは治る!」,のび太は嬉しかったことでしょう。
せかすのび太と,状況をよく飲み込めていないドラミちゃんは,とにもかくにも20世紀へと戻ります。
しかしこの後,のび太は人生最大の落胆をすることになってしまうのです。
動かないお兄ちゃんを見て,ドラミちゃんはすぐにお兄ちゃんの故障の原因がわかりました。
その原因とは故障などではなく,正確いうと電池切れだったのです。電池を交換すれば……。そのとき,ドラミちゃんは重大な問題に気がついたのです。
「予備電源がない……」。つぶやくドラミちゃん。
のび太には,何のことだか分かりません。早く早くとせがむのび太に,ドラミちゃんは静かにこう言うのでした。
『のび太さん,お兄ちゃんとの想い出,ぜんぶ消えちゃっても,それでもいい?』
まだ,のび太は理解できません。
なんということでしょう。旧式ネコ型ロボットの耳には,電池交換時の予備電源が内蔵されていて,電池交換時にデータを保持しておく役割があったのです。
そして,そうです。ドラえもんには耳がないのです……。
のび太もやっと理解しました。
そして,ドラえもんとの想い出が甦ってきました。
初めてドラえもんに会った日のこと。数々の未来道具。過去へ行ったり,未来に行ったりしたこと。恐竜を育てたり,海底で遊んだりしたこと。宇宙で戦争もしました。鏡の世界にも行きました。どれも映画になりそうなくらいの想い出です。
のび太は,ある決断を迫られます。
ドラミちゃんは,のび太に,いろいろと説明しました。
ややこしい規約で,のび太は理解に苦しみましたが,少なくとも次のことはだけは分かったのです。電池を交換することで,ドラえもんの今までの記憶,のび太との想い出を含むすべてが消えてしまうこと。今のままの状態ならデータが消えないこと。ドラえもんの設計については設計者の意向で明らかにされていないので,たとえ設計者に連絡しても助けてもらうことはできないということ。
どうしてドラえもんの設計者は,何も教えてくれないのか。それは,とても不思議な規約でした。修理や改造が自由であることも,この規約に記されているというのですが,これもまた不思議な規約だと,のび太には思われるのでした。
のび太は,人生最大の決断をします。
のび太はドラミちゃんにお礼を言います。
そして,「ドラえもんは,このままでいいよ」と,ひとこと告げるのでした。ドラミちゃんは後ろ髪ひかれる思いで,何も言わずにタイムマシンに乗り,去っていきました。
のび太,小学6年生の秋のことです。
それから,数年……。
のび太はりっぱに成長しました。ずいぶん変わりました。あの小学生のときの泣いてばかりの,気弱だったのび太が嘘のようです。力強い意志を秘めた瞳。りりしくもあり,どこか淋しげな瞳。眼鏡を直すしぐさと,黄色のシャツ,紺色の短パンは,昔のままです。そんなのび太に,大人になったしずかちゃんは,やがて惹かれてゆくのでした。
外国留学から帰国した青年のび太は,最先端の技術をもつ企業に就職し,そしてまた,めでたくしずかちゃんと結婚しました。やがて暖かな家庭も築きます。
ドラミちゃんが去ってからというもの,のび太は「ドラえもんは未来に帰ったんだ」と,みんなには告げていました。そしていつしか,誰もドラえもんのことは口にしなくなっていました。
しかし,のび太の家の押入れには,今も「ドラえもん」が眠っています。あの時のまま……。
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のび太は技術者として,いま「ドラえもん」の前にいます。小学生の頃,成績が悪かったのび太ですが,彼なりに必死に勉強しました。そして中学,高校,大学と進学し,かつ確実に力をつけていきました。
企業でも順調に,技術者としてその実力を認められ,成功しました。もっとも権威のある大学に招かれるチャンスがあり,のび太はそれに見事にパスします。
そうです,「ドラえもんを治したい」,その一心だったのです。人間とはあるとき,突然変わるものなのです。それがのび太にとっては「ドラえもんの電池切れ」だったのです。「修理ができるものならば……」。それが小学6年生の,そしてその後ののび太の,すべての原動力となったのでした。
自宅の研究室−−−。
あれからどのくらいの時間が経ったのでしょう。
しずかちゃんが研究室に呼ばれます。
絶対に入ることを禁じられていた,のび太の研究室です。
中に入ると,夫であるのび太は,静かに微笑んでいます。
そして机の上にある「それ」を見て,しずかちゃんは驚いたようにつぶやきます。
『ドラちゃん……?』
のび太は言いました。
『しずか,こっちに来てごらん。いまドラえもんのスイッチを入れるから』
のび太の頬をつたうひとすじの涙……。
しずかちゃんは黙って,のび太の顔を見つめています。
この瞬間のため,まさにこのときために,のび太は技術者になったのでした。
なぜだか少しも失敗の不安はありません。
こんなに落ち着いているのが変だと思うくらい,のび太は静かに,静かに,そしてていねいに,何かを確認するようにスイッチを入れました。
ほんの少しの静寂の後,長い長い時が繋がりました。
『のび太くん,宿題は済んだのかい?』
ドラえもんの設計者が謎であった理由が,明らかになった瞬間でもありました。あの時と同じように,空には白い雲が,ぽっかり浮かんでいるのでした。